第壱章 建造物

第壱節 法隆寺
▼法隆寺金堂
▼法隆寺五重塔


1、解説・法隆寺金堂
大陸の影響が色濃い建造物である。8世紀初頭の薬師寺東塔やそれ以降の建物とは異なり、東アジアの古い形式が多く見られる。
柱に注目して見てみると、まず柱の上には皿板をつけた大斗があり、そのうえに雲型肘木が乗る。その先端には雲斗が乗り、さらにその上に丸行(丸い物が多いが四角い物もある)があって垂木をささえている。上重の高欄には卍崩しのデザインや「人」型の割束がみられる。雲型の組み物やこれら細部のデザインは7世紀以降の中国朝鮮に通じ、その影響を強く受けた物と思われる。
1949年1月26日朝、解体修理中だった金堂は火災に見舞われ、壁画は消失、柱など部材も表面が焼けただれて再び使用することはもはや不可能であった。すでに解体されていた上重はかろうじて残り、下重を作り直して修理が終わったのは1954年であった。
金堂の内陣は、柱および天井から吊るされた天蓋によって東西南北と中央の五つの空間に分かれている。
中央には釈迦三尊増(止利作、623年)があり、むかって右側の東の間には薬師如来像(止利作、607年と刻まれているが、実際はもっと新しいと思われる)が、そして左の西の間には阿弥陀如来像(康勝による再興。1232年)が祀られている。

2、解説・法隆寺五重塔
○塔
デザインや技法の特徴は金堂と同じで、一連の建築であることが分かるが、組物は簡略化されており、金堂より年代が下がる。
また、金堂と同じで初重に裳階が付いているがその屋根の葺材の形が金堂のものよりも進んでいる。

(上:金堂裳階屋根/下:五重塔裳階屋根)
この塔は逓減率(上に行く程塔身が細くなる率)が大きく、五重目は初重の半分(面積は四分の一)しかない。そのために、組物は初重よりも二重の方が少し横幅が狭く、三重は更に幅を狭くしている。四重では、隣り合う肘木をくっつけて斗を一つで兼用している。五重は柱間が三間から二間に縮められ、そのために二重と同じくらいの大きさの肘木と斗を使っている。
このような自由な工夫は、後の時代には見られないもので、まだ建築様式が確立していない時代のものと言えよう。
塔の中心には心柱があって基壇下約3メートル埋められた心礎から、相輪部まで貫く。1926年4月、法隆寺の当時の佐伯定胤貫首、建築史家の関野貞、歴史家の萩野忠三郎が、心柱の下部の穴に入り、礎石の内部を探索して、舎利容器に入った仏舎利を発見した。
舎利容器はガラス製で、外側には卵型の透かし彫りの金銀製の容器を二重に重ね、更に鍍金の合子に納められ、鎖がかかった銅製の大腕に入っていた。
○塔本四面具
東面:維摩詰像土;維摩経に説かれた場面で、病床の維摩を、釈迦の弟子である文殊菩薩が訪ね、二人の説く妙法)を聞こうとして諸菩薩らや仏弟子達が集まる有り様を示す。
北面;まさに涅槃に入ろうとしている釈迦の傍らで、耆婆大臣が脈をとり、悲しみにくれる諸衆がそれを取り囲む。菩薩像は肅然として哀悼の様を示し、そうたちは天を仰いで号泣する。
西面:分舎利仏土;上段に釈迦の遺骸をおさめた棺、その前に塔形をした舎利容器らしきものが置かれ、周囲に僧、俗人男女、西方の胡人達が座る。
南面;釈迦が入滅して五十六億七千万年後にこの世に下生する弥勒菩薩の浄土を表す





第弐節 薬師寺

▼薬師寺東塔





1、解説
各重に裳階がついた三重の塔。合計六つのうち、大きく張り出しているものが本当の屋根で、その下に取り付けられているものは裳階であって、屋根ではない。
塔では通常、各重の屋根や軸部のおおきさが上に行く程小さくなるが、この塔では、大小の屋根と軸部が交互に積み重なりながら小さくなるように作られており、他では見ることのできない変化にとんだ姿に特徴がある。
この薬師寺三重の塔については、藤原京に創られた薬師寺から現在地に移転したとする「移建説」と、平城京内にある現在地に新たに建設したとする「非移建説」の二つの説がある。前者をとるならば7世紀末、後者をとるならば天平2年(730)年の建立となる。
薬師寺の様式や構造手法は、7世紀末の建立と推定される法隆寺五重塔よりも発達しているが、天平年間(729〜749)の建立と推定される唐招提寺金堂にくらべると未発達の部分がある。
軒下の四隅をくらべれば、薬師寺の三重の塔が法隆寺の五重塔よりも発達していることが解る。一方、軒下に張られた天井は、唐招提寺の金堂の方が発達している。薬師寺の三重の塔では、納まりが整っていないために水平でないのに対し、唐招提寺の金堂では水平になっている。
移建を行った場合、大抵は建物を一回解体してもう一度組み立て直さなくてはいけない。しかし、もう一度組みなおす時、組直しても部材の間にズレが生じて、もとの位置には完全には戻らない。
従って、このようなズレの痕跡などを調査することにやって、移建の有無は判明する。
今のところこの塔からは、移建を示す痕跡などの明らかな証拠が発見されていない。そのため現在では多くの建築史研究者は、非移建説をとっている。
しかし実際はこうした調査を建物が建っている状態で行うことには限界があり、移建・非移建の問題はまだ完全に決着を見たわけではない。
また、この塔はその特徴的な水煙でも知られる。
塔の上部に取り付けてある水煙には飛天像が用いられている。日本の多くの塔では、水煙に唐草文様と火焔状の文様を組み合わせた形のものが多く見られるが、飛天像の例は余り聞かない。
一方中国においては、5〜7世紀に創られた石窟寺院の浮き彫りの塔などに、相輪と共に飛天の像を描く例が見られることから、薬師寺の東塔はそれらが建立された時代の、日本と中国の密接な交流関係の一端を表していると思われる。
○塔について
 インドの仏教美術は。先ず釈迦の遺品や遺骨、即ち仏舎利を礼拝する所から始まった。この仏舎利を安置した土饅頭形の塔のことをストゥーパと言い、日本では「卒塔婆」と言う形で音訳されている。ストゥーパの古い遺品は幾つか残っているが、原型をよく留めているのがインドのサンチー塔である。
 丸い大きなはちを伏せたような形のストゥーパを廻って、四方に鳥居に似た門が開かれており、周囲には垣根がはり巡らされている。塔門の横梁には騎馬や騎象の丸彫像や、美しい女性像が配置されている。柱や横梁には裏にも表にも、釈迦の前世の物語である本生譚が彫刻されている。
 ストゥーパの頂上には、相輪の原型となったと思われる円盤がのっている。
 この伏鉢形と相輪が、西域から中国に入り、朝鮮から日本へと渡り、法隆寺の五重塔や薬師寺の三重の塔として実を結ぶ。またこの形はパキスタンにも伝わり、日本とはまた違った形式を生み出す。
 薬師寺の三重の塔の一番上の屋根にある、塔の擦銘の刻まれた方形の露盤の上には、サンチーのストゥーパと同じ伏せ鉢があり、その上に宝輪が重なり、頂上には天人の舞う水煙がそびえ立っている。
 この塔もまた、インドから長い道のりを経て伝わっているのだ。

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