第弐章 仏像
第壱節 法隆寺

▼釈迦三尊像
▼四天王像
▼観音菩薩立像
▼観音菩薩立像



1,釈迦三尊像
台座は宣字座(せんのじざ)と呼ばれる上下二重の台座で、下座の鏡板の四面には須弥山世界を表す山岳や草木、飛天などが彩色されており、特に両面側にはその須弥山の中腹を守護する四天王が描かれる。また上座にも同様の山岳や飛天が描かれ、山中で瞑想する羅漢の姿が見える。これらは須弥山世界上方に位置する釈迦の霊山浄土を表すともいわれている。
更に下座の鏡板正面には向かい合う二頭の獅子が描かれ、釈迦が三昧(瞑想)に入る獅子座であることをこの台座が示している。この二重の台座は、中尊である釈迦如来が須弥山世回の霊山浄土上ににあって獅子座に座り、三昧ののちに世界を凝視して微笑まれたと説く教典「大智度論」の内容を具体化している。更にこの教典は仏の光明や化仏、天人、供養華(蓮華)、華蓋(天蓋)、如意珠(宝珠)のことを記していて、これらの要素は全て光背(当初は飛天がついていたと考えられる)や天蓋のデザインな中に見られる。
中尊は如意通印を結び、肉髻が高く、面長な顔だちである。着衣のスタイルは中国の6世紀前半に確立した物をほぼ継承しているが、この像に於いては変則性が見られ、作者の苦心と工夫の後が見られる。中尊・脇侍共に杏仁型の眼にアルカイックスマイルを浮かべ、美しくも荘厳である。全体には緊張感が漂っていて、仏の仏としての神秘性と気高さをたたえている。




2,四天王像
金堂の壇上四隅にあって、東を守護する持国天は東南に、西の広目天は西北、南の増長天は西南に、北の多聞天は東北に配置されている。
ユーモラスな邪鬼達のスタイルは異質で、のちの作品には見られない形式である。四天王の鎧の形式が、中国四川省成都万仏寺跡出土の四天王像のものと似ていることから、中国南北朝の影響と見られる。
また、持国天の邪気の頭部は牛頭で、蚩尤神(牛頭で表現される神、黄帝に刃向かったが、黄帝と西王母によって滅ぼされた)か鎮墓神を表現している物とも考えられる。おそらくは、この四体の邪鬼はそれぞれなにかの災厄、もしくは異民族を表していたのかもしれない。そしてたぶんその両手にはその災厄なり民族なりを象徴する物が握られていたのだろう。

3,観音菩薩立像
今日「百済観音」の名で親しまれている観音像であるが、その伝来は不明である。
この像の表現似ついては、それ以前の救世観音などとは明らかに異なる立体の表現が見られる。
左手の指先でそっと水瓶をつまみ、右の掌に何ものかのせるそれら両腕の動き、両肘から前後にうねりを見せて垂れる天衣、両胸、および下腹部などがほのかに膨らむ肉体などに表れている。
これらの表現には、七世紀後半の厳格な正面観照性を打ち出した様式とは別の、より自然でリアルな肉体の表現への指向が読み取れる。
宝冠などの透かし彫りの文様などから、おそらくは650年前後と思われる。
又、その源流については、中国麦積石窟や鞏県石窟まど、南北時代の北朝にあって、南朝の影響を受けた諸石窟のうちの六世紀の像が考えられる。もしくは、南朝の影響をそのまま受けたとも考えられる。


4、観音菩薩立像
「東院資材帳」のなかには、「上宮王等身観ぜ音菩薩木像壱躯金箔押」すなわち上宮王(聖徳太子)と身の丈が等しい木造の観音像であり、金箔押で仕上げられていることが分かる。
この像は東院夢殿に祀られている。夢殿のような八角堂は貴人の霊を慰める霊廟としての意味合いが強く、太子の現し身とみなされても不思議ではない。
この像は十二世紀前半には既に秘仏として厨子内に安置され、中近世を通じて人々の目からは長く閉ざされていた。しかし明治十七年(もしくは同19年岡倉天心とフェノロサの手によって開扉され、その姿が一般に知られるようになった。
像の製作年代は、太子の存命中か没後で意見は別れるが、いずれにせよ宝冠や光背の文様からして遅くとも推古朝をさほど下らない7世紀後半のものであることに異論はない。その様式の源流似ついても、宝珠(もしくは舎利器)をもつ図像や、上下二段の重なりで表現される反花の形式などが、主として朝鮮半島・三国時代の百済(4世紀半ば〜7世紀)や、中国南北朝の梁代(6世紀)に辿れることから、その地域との密接な関係の上での造像と思われる。






第弐節 中宮寺
▼菩薩半跏像


1,菩薩半跏像
飛鳥彫刻を代表する名作として知られる。技術の水準の高さからして、飛鳥彫刻のもっとも充実した時期に製作され、しかも白鳳彫刻への転換を示唆する彫刻である。
この像は弥勒菩薩を表したものであるが、半跏思惟の形をとっている。
弥勒菩薩は釈迦のあとに生まれる未来の仏とされていて、その像が作られた時期は古く、釈迦像の成立とほぼ同時期と見られている。

仏像が初めて造立されたのは紀元後1世紀のガンダーラ地方(インド西北、現在のパキスタン北西部)に於いてであった。これは、釈迦の入滅後約500年を経てからのことである。一方弥勒の確かな造像例は、クシャーン朝カニシカ1世の貨幣に刻まれたものが現在最古である。カニシカ貨幣のうち、仏像を刻んだものは釈迦と弥勒の二種類あり、釈迦は金貨に、弥勒は銅貨に刻まれている。銅貨に「マイトレーヤブッダ」の銘があり、これによりこの像が未来仏である弥勒を表したものであることが分かる。この貨幣における弥勒の姿は、装身具を付けた貴人の姿で表されており、右手は手のひらを開き、左手には水瓶を持って、台座の上に結跏趺坐している。ガンダーラの弥勒造像は多様なものであったが、像容の基本形はほぼ一定でほとんどの像は、結髪し、水瓶を持った姿で表わされている。
クシャーン朝第二の都市、マトゥラー(現在のインド北部の都市)は、ガンダーラと並んで仏教美術が盛んであった。ブラーフミー語で「弥勒」の銘があるアヒチャトラーからの出土像は、このマトゥラーにおける弥勒像の典型である。装身具を付け、水瓶を持っている所はガンダーラのそれと同じであるが、頭髪を結い上げて螺髪を表す形に、マトゥラーにおける独自の表現が見られる。そのほかにも、剃髪したり髪髻(もとどり)を表したり、宝冠をいただくなど、ガンダーラで見られる螺髪形式とは異なった独自性が見られる。また、半跏思惟の像がここで発見されている。やがてクシャーン朝の弥勒像は、ガンダーラやマトゥラーから、仏教伝播の道を通って東方へと展開し、そして中国にいたる。
中国最古の弥勒菩薩像は、弥勒としての像容もさることながら、異国的な容貌、装飾具、着衣の特徴なども際立ってガンダーラ色が濃厚である。初期の中国彫刻が強烈にガンダーラの影響を受けていたということが良く解る。しかし、このようなガンダーラの様式がそのまま中国で継承されてゆくことはなかった。
仏教の北伝ルートにおける石窟寺院においても、ガンダーラ風の結髪は見られず、太陽や月をかたどった文様のはいった宝冠を冠している。
そして北涼時代には、それまでには見られなかった交脚の弥勒菩薩像が見られるようになる。
やがて北涼は北魏に併合されたため、雲岡、竜門、炳霊寺などの北魏石窟でこの新形式の弥勒交脚像が展開される。
東魏以降の中国では、弥勒菩薩像は半跏思惟像を中心に新たな発展を遂げる。
朝鮮半島においては高句麗、百済、新羅が並立した戦国時代は、ほとんどの像が半跏思惟像である。
中国の弥勒像のうち、特に東魏以降の物が朝鮮に伝播したのである。
しかし、東魏以降主流だった天衣を両肩にかけた像はわずかで、大部分は両方に垂髪、冠帯を表し、上半身には衣をつけない北斉期の河北地方での形式を踏襲している。
そして、日本へは、主に中国でなく挑戦から弥勒菩薩の像造は波及したと考えられる。
はじまりは遠くガンダーラから、そしてこの日本へと、弥勒菩薩は長い旅を経てここに辿り着いたのである。





第三節 興福寺

▼八部衆像


1,八部衆像
この八部衆像は、10大弟子立像と共に、元西金堂の本尊釈迦三尊像の周囲を取り囲む眷属として祀られたものである。現在八体のうち、五部浄像は大破して頭部と右腕を残すのみとなっているが、その他の像は各所に欠損や後補が見られるものの、良好な保存状態で、その姿を今に残している。三面六臂の阿修羅像、鳥頭の迦楼羅像、獅子冠の乾闥婆、一角の緊那羅はその存在が明らかだが、他の
四体については、伝・沙羯羅像を摩侯羅迦とみる説があったりして定かではない。
 天平彫刻の名品の一つに数えられるこれらの像のうち、とくに有名なものは阿修羅像である。怒りと悲しみと憎しみの三面の表情をもつこの像は、静かな躍動感を内に秘めている。本来阿修羅はバラモン教における天上の神々に対抗する戦闘的な暴虐神であった。それが仏教に取り込まれ、仏法の守護神となったのだ。
 本家本元であるインドで描かれるアースラ神とこの阿修羅像はかなり異なっている。浅学な私なので断言することはできないが、日本における阿修羅とインドにおける阿修羅とでは、、この阿修羅増が例外かも知れないが、随分とその存在意義は異なっていたのではなかろうか。時間や空間を越えて普遍のものもあれば、流動してゆくものもある。この阿修羅神が、その良い例ではなかろうか。余談だが、インドの鬼子母神であるカーリーも、中国に入って大地母神に姿を変えている。
全体に痩身で小さめな頭部、やや長めな胴体も、高くかかげられる脇手との絶妙なバランスを保つためのプロポーションにほかならない。悲哀の情をたたえた表情、その姿は、今にもガラスケースのなかから飛び出してきそうである。

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