第参章 正倉院
第壱節 文様
▼狩猟文
▼樹下動物文
▼花喰鳥
▼葡萄唐草文
▼連珠文
▼暈繝


1、狩猟文
○銀壷
狩猟文の代表。これは、称徳天皇が天平神護3年(767)二月四日東大寺へ行幸された時に大仏に献納したもので、二個で一対を為している。口の直系が約42cmで、胴の直系が約60cm、高さが40cmのかなり大きなもので、重さは台座を合わせて42Lにもなる。胴のまわりには山野に羊、鹿、猪を追う12人の騎馬人物が浮き彫りで表されている。
この狩猟文は、疾走する馬上に後ろを振り向きながら獲物に対し弓を構えているいわゆるパルチアンショットの姿など、ペルシャ系の狩猟文の影響が強く現れている。これによく似た狩猟文が西安南郊の何家村から出土した狩猟文銀杯の上に見い出されるのは、非常に興味深い。
銀壷もその線彫りや魚子(ななこ)打ちの技法から見て唐で製作されたものとして考えられている。

○緑地狩猟文錦
これは緑地に黄色で文様を表した緯錦(横糸で文様を表した錦)である。文様は、葡萄唐草文を連珠文の円環の中に、馬上を振り向いて豹を射ようとする四人の騎馬人物を表したペルシャ系の狩猟文で、それらの騎馬人物の間に疾走する鹿、花樹に相対する羊が描かれている。
ここに見える樹下双獣文や葡萄唐草文は西方の文様であり、また連珠文もペルシャ地方独特の文様であることを考えると、この錦の文様は西方系の文様を組み合わせて構成されていることが解る。
初唐期の舶来品と考えられる法隆寺の四騎獅子狩文錦は織も緻密で文様の輪郭線も鮮明であるのに対しこの緑地狩猟文錦は、文様構成はより複雑になっているが、織線も柔らかく、色変わりの類裂もあることから、舶載の錦を手本に我が国で製作されたものと考えられている。


2、花喰鳥
花喰鳥の文様は各種の宝物の上に見られるが、これは唐代における花喰鳥文様の流行を受けたものである。花喰鳥文様の起源をオリエントに求める説もあるが、少なくとも唐代におけるその流行は直接にはササン朝ペルシアのそれの影響と見られる。


3、樹下動物文
○花樹獅子人物文白橡綾
机上の敷物として用いられたものである。この綾の文様はペルシャ系の樹下双獣文の形式で、中央の大きな葉とふさふさと実った大きな果実を付けた熱帯樹の両側に立ち上がる獅子を表している。獅子の後ろには片手に手綱を、他方の手に鞭をもつ上半身裸体の黒人風の獅子使いを立たせ、その背後には羊とその上方に留まる孔雀を表して、全体に極めて異国風で南方風の雰囲気をたたえている。
○鹿草木夾纈屏風
これの文様は、白あしぎぬに夾纈染で樹下に相対する二頭の鹿を表し、草花、岩石などを排した構図で、ペルシャ系の樹下動物文(対獣文)の意匠になるものである。色彩は、茶、緑、縹などを用いている。夾纈染は、いわゆる板締めの技法によるもので、文様を彫った二枚の板の間に多くの場合切れを二つに折ってはさみ、一方に板の表面に開けておいた穴から染料を注入して染めるので、染め上げた後、板を外して切れを開くと、文様が左右対称になるのが特徴で、この屏風はその良い例である。


4、葡萄唐草文
葡萄唐草文はギリシャに始まると言われている。それがオリエントに移り、更には東に伝播したものである。
○鳥獣花背方鏡
白銅製の四角い鏡。唐代に流行した海獣葡萄鏡に属するものである。鏡背の文様は、方形の内外二区に分け、内区には中央の獅子型の鈕(ちゅう、つまみ)の周囲に様々な姿の六頭の獅子を配し、隙間は葡萄唐草文で埋めている。外区は四隅に中央に向かって飛ぶ飛鳥を起き、全体を葡萄唐草文で埋め、これに飛雲、鳥、蝶、蜂、虻などを組み合わせ、外周には忍冬唐草文を波行させている。
鋳上がりが鮮明で保存状態もよく、伝世品としての美しさをよく留めている。鋳造技術の優秀な所を見て、唐からの舶載品と考えられている。
1946年ソ連のタジク共和国でもの方鏡と類似の方鏡が出土したが、半分が掛けている。
○紫地鳳形錦軾
国花珍宝帳に記載されている。聖武天皇の用いた軾(ひじつき)であるが、その表裂に用いられた錦は紫地に白、緑、黄、赤の色糸によって文様を表した緯錦である。
文様は葡萄唐草の円環の中に中国特有の霊鳥である鳳凰を配したデザインで、中国において考察されたものであると思われるが、錦そのものの織には乱れがあり、また類裂の存在する点などから見て、舶載の唐錦を手本に我国で製布されたものと考えられる。


5、連珠文
連珠文はペルシャ系文様であるが、宝物の上用いられた例が多い。
○平螺鈿八角鏡
国家珍宝帳に記載されている。白銅製、八花形の鏡の背面を螺鈿と琥珀で飾った華麗な宝飾鏡である。樹脂様の下地に螺鈿を張り、すき間にはトルコ石や青金石(ラピスラズリ)の破片をちりばめ、文様と他が均一面になるようにとぎだしてある。これを平螺鈿という。文様は、鈕の周りを螺鈿の連珠文で囲み、更に中程にも連珠文を置き、その内外を螺鈿と琥珀を用いた大小の花葉文で飾り、その間に相対する四組の尾長鳥と四組の水鳥らしい双鳥を配している。螺鈿には毛彫りをくわえ、花芯や花弁に朱や金泥を施した上に琥珀をはめて下の彩色が透視されると言う手法が用いられている。


6、暈繝
純粋な文様とは異なるが、得意な彩色法として暈繝をとりあげよう。
暈繝彩色は同一系統の色彩の濃淡を明るい色から濃い色へと段階的に区切り、色の移行によって色彩の変化を見せる彩色法である。
暈繝彩色は西方地域に源流があり、南北朝頃(439~589)
中国に伝えられ、隋唐時代にしきりに行われた。我国の暈繝彩色は無論その影響を受けたもので、飛鳥時代から始まったと考えられているが、盛んに行われるようになったのは奈良時代に入ってからで、正倉院の宝物に多くの例を見い出す。




第弐節 器形

▼漆胡瓶
▼白瑠璃瓶
▼白瑠璃碗
▼漆胡樽
▼緑瑠璃十二曲長坏
▼佐波理水瓶


西方文化の影響は器物の形の上にも著しく認められる。
1、漆胡瓶
胡とは唐代においてはペルシャを表し、漆胡瓶とは漆塗りのペルシャ風の瓶(水差し)と言う意味になる。国家珍宝帳に記載されている品で、頭と注ぎぐち取り頭形にかたどり、首は細長く、胴を丸くし、下部にラッパ型の台脚を付けている。頭部から背後に掛けて湾曲する取っ手を付け、蓋と取っ手を細長い銀鎖で繋いで、器体全体に銀平脱で山岳、鳥獣、蝶、雲、草花を表している。
東京国立博物館の法隆寺献納宝物の中の銀製の龍衆水瓶は同じ形式のものである。


3、白瑠璃碗
アルカリ石灰硝子の碗型カットグラスで、側面に四段、各十八の円形の切り子が施され、外底面には大きな円形の切り子の周りに七個の小さな切り子が巡らされている。側面の切り子は互いに密接して亀甲つなぎの文様を表し、また各切り子に反対側の切り子が網目文のように美しく映し出されている。
江戸時代に安閑天皇陵から出土したと言われている硝子碗で、その形状、切り子の数や形、更に切り子の曲率までも酷似したものが現在東京国立博物館の所蔵になっているが、この二つの硝子碗は、同時期に同じ場所で作られたのではないかと思われる程欲にており、しかも技術的に見て優れているので、西方伝来のものではないかと考えられている。近年イランのギラーン州などから類似のカットグラスが出土している。





2、白瑠璃瓶
注ぎぐちを鳥のくちばし上にかたどり頸を細く、胴を膨らませ、頭から胴の背面に掛けて把手を付けたアルカリ石灰硝子製の水差しで、漆胡瓶と同じく唐代に胡瓶と呼ばれた器形で、全体に黄緑がかった透明な硝子器であるが、底部など厚い部分は淡緑色を呈する。製作技術は極めて優秀である所から見て、ペルシャ製と考えられる。


4、漆胡樽
牛の角を大きくしたような形の水を入れる容器で、先端が注ぎ口になっている。木製で、総体に布着せして黒漆を塗り、天板の二ケ所に鉄製の鐶をつけ、二個で一対を為している。駱駝などの背に振り分けに負わせて運んだものだろう。形から考えると砂漠などを旅する時に用いた皮製の水袋を手本に木で作ったものと思われる。注ぎ口の近くに見えるくびれの部分は、革袋の口を皮紐で締めた所を模したものであろう。
全体の形体の中に異国的な雰囲気を漂わせていて正倉院の宝物の中でも異色のものである。


5、緑瑠璃十二曲長坏
濃い緑色の長楕円形の硝子の坏で、両側に二段の半月系の襞を作り、外縁に十二の屈曲をつけている。材質は鉛硝子で、濃い緑色は銅による発色である。外面に刻まれた文様は、外部の中央から両短側方向に対称にチューリップ風の草花を置き、その左右に草花の茎状のものを配し、長側に兎らしい小動物が描かれている。
周囲に屈曲を付けたこのような楕円形の容器は、正倉院には別に金銅八曲長坏があり、同種のものは中国、ポーランド、南ロシア、イランなどで出土しているが、硝子製のものは珍しい。個の十二曲長坏は中国製と考えられるが、この形式の容器の起源はササン朝ペルシアと言われている。銀製十二曲長坏はイランのギラーン州で出土したものである。


6、佐波理水瓶
塔の相輪形をした鈕をもつ蓋、細長い頸をもつ卵型の銅、低い高台からなっている。胴の部分に胡人の風貌をした人面を取り付けて注ぎ口としている。人面はトルコ、イラン系の顔を映したもので、この形式が西方の影響を受けたものであることを暗示する。なお、佐波理とは、銅と錫の合金である。

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